わたしの17歳

ジュディアンドマリーを聞いています。知っていますか、ジュディアンドマリーを。ぼくは知っています 17歳の時それまで暮らしていた横浜市から仙台市に引っ越しました 馴染みもなにもない仙台に唐突に引っ越しました 父親の仕事の都合といういかんとしがたい理由です。高校に行かなかった自分はLAWSONでアルバイトを始めました 吉成のLAWSONです。17歳の自分はバンドだけがやりたかったみたいで 同い年のアルバイトの女の子にある日 あのー、バンドやりたいんだけどなんかない?って聞いた。意味わかんないけどバンド以外になんにも興味はなかったのでまあいいと思う。なんかない?ってなんだよ。唐揚げくんの香りの充満する店内でバンドのことを聞いた。

わりと親切な友達だったから 同級生がいついつにスタジオに入るみたいだから 遊びに行ってみたら?なんつー、ありがたい話をもらった。よくわかんないまんま遊びに行った。かれらは当時めちゃくちゃ流行っていたシーソーゲームを演奏していた、あれは五橋のB2だったと思う。



そこでの感想とか意識とか会話とかはあんまり記憶にないけどギターの人間が 今度ジュディアンドマリーを演奏するバンドを組みたいと思っているんだけど ドラムを叩いてくれないかいって言われた事だけ覚えている。17歳だった96年当時、日本中にはかなりたくさんのジュディアンドマリーのコピーバンドがいたんじゃないかな あいつもそいつも、またこいつもみんなYUKIちゃんだった。

そこからぼくらはジュディアンドマリーの曲を演奏した 仙台のライブハウスにも出た 友達もできた。ジュディアンドマリーの新譜は演奏するために必ず聞いた どれもポップで楽しいものだった。時が経ちそのバンドはオリジナル曲を演奏するようになった 今、弾き語りで毎回やっている2001年普通の旅はそのバンドの曲です 当時は10分あった。 ギターのあまり弾けないボーカルの女の子にギターを持たせたり 自分の好きなバンドの曲を集め編集したMDをメンバーに渡したりとジュディアンドマリーから派生しオリジナル曲を演奏してきたバンドだけど その巨大にポップなイメージに括り付けられる活動からは避けたいとたいといった若気の至りがあったから その音楽は統一性のない世界観ではあった。



2000年くらい、青春は加速したり失速したりした後に僕はそのバンドからは離れてしまった。たくさんあって なんにもなかった でもいつも楽しかったです。そのバンドがもし続いていたら今年25周年かあ。電車が駅に着くからブログはもう終わりです。